クソの言い訳。

なぜか幸せ。なぜなのか知りたくて。

夢枕に立つ だと良いな

昨夜

内容は覚えていないけど父が夢に出てきた

 

 

夢とはいえ

存在を感じるのは久しぶり。

 

 

夢に出てきてもやはり変わらず嫌だった。

 

 

 

あまりにも久しぶりの存在に

死ぬ前の夢枕であれと願う。

 

 

その後中々寝付けなくて

やっと寝ても

久しぶりの金縛り。

 

 

今回の金縛りは

頭が起きてて体が寝てるバージョンだと思う。

だとしても

何かが私に向かってくる感覚があり

それが父なら何としても嫌だから

めっちゃもがいて

声もでて

金縛りか夢も解けた

 

 

うん。

 

金縛りにあって解く夢を見たのかもしれない。

 

 

わからないけど

 

 

気分が良くはない夜だった

蒔いた種の育ち方

自分で蒔いた種が

そんな形で戻ってくるとは

 

もーほんとめんどくせーから

 

手放していく。

 

 

人のためにしていたつもりが

迷惑だったなんて

こっちだって迷惑だよ

 

正月から気に入らないことが多すぎて

でも

私が私だから起こりうることだと思うから

 

やり場がなくて

 

 

 

ウォークインクローゼットに行こうとする衝動と包丁を持ち出す衝動を抑えるためにひたすら寝た。

 

蒔いた種に水をやらなければ

蒔いてないことになるかなー。

どうやら今のところ

最近は少し気持ちが穏やかなんだと思う。

本当に書きたい『言い訳』をかけないでいるから。

 

穏やかな時は

好きな事を好きに記録しようかな。

 

好きな事を語りたい時に語れるほど

人付き合いしてないもので。。。

 

 

でも、好きな事を記録する中に

私の『クソの言い訳』に繋がるものがあると思うので。

 

好きな事も嫌いな事も

この過去が根底にあるのって当然ですよね。

 

たとえば私は

好きな音楽なんですか?って

初対面の人に聞く。

それで、その人がどんな人かって予想がつくから。

 

私が好きな音楽はのちに語るとして

 

初めて買ったCDは小学三年生の時に

GAOのサヨナラ

 

小学校の時カセットテープでよく聞いていたのは

中森明菜の水に刺した花

 

暗いなぁ〜〜。

 

嫌いじゃない本当は甘えたかった

20代

都内の学校に通うために

親戚の家でお世話になっていた。

 

だから

大嫌いな家とは距離をおけた。

 

ある時クラスメイトの関西人が

「普通家族みんなで食事するもんやろ?それが当たり前や」

と言った。

 

ドラマの中だけかと思ったら本当にそんな家族、居るんだな

という感想とともにイラっときた。

 

「普通って何なん?べつにいろんな家族がいてもいいじゃん」

 

というと

何言ってるかわかんないという風に首をかしげていた。しかも口をとがらせて。。。

あの首のかしげ方

人を馬鹿にしてるようなあの首のかしげ方、今こうして思い出してもイラっとくる。

 

父親は大嫌いだけど早く死ねと思ってるけど

 

母に対しては幼いころに親のセックスを目撃して嫌悪感を持ち

その気持ちが消えないまま大人になったけど

嫌いじゃなかった

ただ

大人になった頃には

どう接していいか分からないままだった。

 

寄り添いたいって思ったけど素直にもなれなくて、

そのままあれよあれよと母が65歳の誕生日を迎える年になった。

 

 

その年まず、

母は新年早々ぎっくり腰で2週間ほと寝たきりになった。

私はご飯の用意その他代わりに全部やった。

辛そうだったな。

そして

3月・・・311がやってきた。

本当に大変な震災だった。

家には特に被害は無かったけど計画停電その他不自由な生活は多少あった。

 

その頃、私はと言うと

葬儀の司会を仕事にしたいと考え

葬儀の案内係として働いていた。

お手伝いさせていただく葬儀のほとんどが70歳後半の方々だった。

母もそれくらいまでは生きているだろうと思ったり願ったりしながら働いていた。

 

 

母が10月で65歳の誕生日を迎える。

その誕生日はお友達と北海道に旅行へ行くと言うので

デジカメでもプレゼントしようと思っていた。

葬儀の仕事をしているせいか

葬儀の時に使えそうな写真や孫の写真など

沢山の思い出に残る写真を撮ってほしいと思ったからだ。

 

それと

普通に話をしてみたいと思ったけどもう時すでに遅く、会話の仕方がわからない。

だから

結婚して孫ができて

孫を抱いてもらう事が私にできる唯一の親孝行だろうし、子育てを通して普通に会話もできるようになるかもしれないと思った。

だから

いつになるか分からない、来ないかもしれないその日がくるまで

長生きしてほしいと心から思っていた。

 

そして9月

母は心筋梗塞で倒れた

 

2~3日が山ですと言われた。

 

新年早々ぎっくり腰で寝込んで

震災があって生活が大変で

こんなに大変なことがあったから

今年はもう大変なことは起きないと思っていたのに、、、。

 

日の光を浴びていても暗闇を感じた。

でも

信じれば奇跡は起きると信じていた

だから

「もう駄目だ」となげく父の声に心底嫌悪した。

そして

「お前が先にいけよ」と心で何度も叫んだ

何度か本人に届くほどの声で言っていたかもしれない。いや、言った。

 

倒れた翌日

母はむくんで顔が倍になっていた

人工心肺で生かされていた

先生はもう駄目ですとは言わない

「蘇生の確率は低い」という。

0じゃないならと私はとにかく祈った。

 

信じていた。

 

その夜、ひたすら願っていたらウトウトした

だから夢かもしれない

足元に母の辛そうにうめく黒い影がいた。

なにしろ私は信じていたので怖いという感情を超えてこう思った。

「母が目を覚ます」と。

朝を迎えて母の病院に行くと母の顔はさらに大きくむくんでいた。

でも信じてた。

どうか親孝行するチャンスを下さい。

こんなときばかり申し訳ないですが、、、どうか・・・・・。

 

 

先生は言った。

娘さんの気持ちが落ち着いたら人工心肺を外しましょう。的なことを。

「私の気持ちが落ち着くの待ち?」

必ず目を覚ますと信じている私がおかしいの?というような気持ちになった。

でも

受け入れるしかないんだなということも分かっていた。

 

そんなこんなで母は65歳の誕生日を迎えることなく

この世を去った。

 

私は倒れた報告を受けた時から光が奪われた。

我が家にも大震災が来たと思った。

同時に、こんな想いをしている方々が沢山いるんだと思うと余計に涙が出た。

 

 

母に苦労ばかりかけてきた父のせいだ

という思いだけではない

 

何より

 

 

 

なによりも

 

 

 

 

母を殺したのは私だ

 

という後悔が私の世界を覆っていた

 

 

そう思うだけのことをやった覚えがあるから・・・。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

死んだ時、流す涙の1つ位・・・part1

4人兄弟で末っ子の一人娘なので

とても甘やかされて育っていたと思う。

基本的には。

 

3歳くらいまでは自営で金持だった

父の仕事がダメになって4歳の頃こっちに引っ越してきた。

 

6畳が2つ4畳が1つ4畳の台所がある小さい平屋。

そこに6人家族。

 

自営で成功していたころ

父はたびたび旅行へ行ってはキスマークを沢山つけて帰って来ていたそう。

女とギャンブル。

基本のダメ人編スキルは身に着けていた。

 

私の土曜日のリビングはパチンコ店の休憩室だった。

おぼっちゃま君は毎週そこで見ていた。

日曜日の遊び場だってパチンコ店だったな

もしくは母の職場か自宅

 

母のことは自由を奪い

常に仕事をさせていた。

 

一番上の兄は運動会の時、両親が来ないのはもちろん

父が母に弁当を作る時間も与えなかったため

菓子パンを数個持たされて一人で食べたそう。

 

成人してから聞かされた話だと

こっちに引っ越してくる時

養う事が不可能だからと

中学生の兄2人と幼稚園児の私を施設に預けようとしていた。

母がそれだけは止めたらしい。

 

私の物心がついたころには

父は両目が見えなくなっていた

なぜだか未だに良く分からないけど

それでも自分の店の商品を作っていたのだから

そこはすごいことなんだと思う。

 

小3の頃

心臓を悪くして倒れた

 

心臓も目も悪いのに働いていた

そこはすごいんだと思う

 

こっちに越してきてからだろうか?

父が母に暴力をふるうようになっていた

 

兄がコツコツ貯めた10万円がなくなった。

 

一度もそんなことした事ない父が

たまたま兄の部屋の兄の布団だけを干してあげたそうだ

それで布団の下に潜ませていた10万円が飛んで行ってしまったんだろう

という父の話。

 

兄は頭がよくて大手の企業に就職した。

兄はよく金を貸してほしいと土下座されていたそうだ。

 

自分より下だと思う相手には

常に命令口調で、気に入らないことがあると

大きな声を上げる

 

買い物に行って店員の態度が気に入らないと

やはり

大きな声で店員を怒鳴っていた

私はそれが嫌だと感じた

 

両親の帰りは遅く、一人でいることが多かったので

一人でテレビを見ている時間が何より幸せだった

 

日常的に父と母が喧嘩をして

父の罵声と大きな物音がするので

ある日、

家中の窓を閉めて回った

「くだらない喧嘩、外に人に聞かれたら恥ずかしいから」

それでしばらくたってもまだ喧嘩しているので

今度は家中の窓を開けて回った

「くだらない喧嘩、くだらなすぎるから外の人に聞いてもらえばいい」

そして

「子供は黙っていろ」と言われる。お決まりだ。

だから私は

「子供が口出すほどくだらないんだよ」と言うと

私への暴力が始まる。

なにより触れられることが我慢ならなかった。

 

母と連絡が取れなくなると

携帯の着信履歴はすべて父

それでも出なければ

職場に電話をする。

 

急用ではない。

自分がその時思いついたことを

思いついた時に話さないと気が済まないからだ。

 

父はお金もないのに人にお金を使うのが好きだ

お金を払えば言う事を聞いてもらえると思っている。

 

だから私もお小遣いは良く貰っていた。

いつしか私はその小遣いを

「娘でいてやるための我慢賃」

 

 

 

そんな10代

 

 

 

何も変わらないのに何かが変わった高校時代

 

幼稚園→小学校→中学校

何一つとして美しい思い出がない。

 

それもこれも自分がまいた種。

 

ならなぜそんな種をまくような人間になってしまったのか?

 

家が大嫌いで

父と母が夫婦喧嘩を始めると最終的に決まって父が母に手を出すので

私が止めに入る。

もちろん火種はこちらに飛んできて私が殴られ、首を絞められるのがお決まりのパターン。

私は父に言う

「止めて」ではない

「触らないで」と。

 

ある時は朝、台所で母の首を絞めている父を見たので

とっさに自転車のヘルメットをグルグルと振り回して父を殴った

もちろん私が首を絞められ学校へ向かう時間がくる。

 

一歩外に出るとすぐに気持ちは切り替わった。

だから学校が好きだった。

 

 

でも

 

私は幼い時に父と母がセックスをしているところを何度もそばで感じていたために

母に距離を置くようになって

身近な人とコミュニケーションをとって来ず

幼稚園も父の仕事がダメになってこっちに引っ越してきた為

なじめずにいつも一人だったし

 

そのせいでなのかな?

 

人へのおもいやりが壊滅的に出来なかった。

あと、良いなという思いが妬みとして相手に牙を向けていた。

 

だから中3のときの地獄は自分がまいた種だから仕方がないと

本気で思う事が出来ていた。

だからってゴメンナサイでハッピーエンドはやってこないことも分かっていた。

 

 

でも高校に進学して少し変わった。

仲良くなった女子たちがとても素敵で

妬んだらもったいないって思った。

みんな素敵だなーって思うようになった。

それだけ一緒にいて楽しい仲間に出会えた。

高校時代は宝物だ。

 

 

高校時代の家の中も少し変った。

母に休みが出来るようになった。

今までずっと昼夜ずっと働いていた生活だったから

内心では安心した。

でも

それを母に伝えるようなコミュニケーションの取り方が分からなかったから

心の中で思っていただけ。

 

父は住み込みで働きに出るようになったので

週に2日だけ家にいる。

いない日は家の空気が軽かった

 

 

私が父と母のあの嫌悪感で胸糞気持ち悪くなるセックスを知らなかったら

きっと母の言葉を

もっときちんと聞ける人間になっていただろう

 

それと

「おかぁさん おかぁさん 聞いて聞いて  あのね~・・・」って

沢山の話をしていただろう

笑って会話することもあっただろう

 

ほんと今1歳の我が子を育てながらそう思う。

 

少なくとも

母が死んだときの気持ちがもっと違うものになっていたかもしれない。

 

母が死んだときの気持ち

「わたしが殺したようなものだ」

「父のせいで死んだんだ」

この二つが渦巻いて

真っ暗闇の日々だった。

 

 

とにもかくにも

家での私は何も変わらないのに何かが変わった高校時代